八百五十回目:思想なき思想

僕は一般的に人から右翼だと思われている自己認識があるのですが、正直なところをいうと右とか左とかどっちもいいと考えている。
何故なら右とか左とかはどっちも正しいけど正しくなくて、結局はその時点の現実の説明能力の差で正しいとか正しくないとか言われてるだけだと考えるので。
例えば経済学の話でいうと、フリードマンを正しいかケインズを正しいかなんて問題は、その時点の現実経済をうまく説明できるか否かの違いだと思うので、どちらかに心酔する気は全然起こらない。
会社経営とかもCSRがもてはやされるならそれで良いし、株主至上主義がもてはやされるのであればそれで良い。
世の中がうまくいって幸せな人が増えるのであれば方法はどうでもいい。
重要なのはどういうときにどういう方法を用いるのが一番社会全体の利益になるのかを知っておいて、世の中の流れに応じて臨機応変に対応することだと思う。
難しいけど。


そんなのはただの蝙蝠野郎で思想がない!と考えるかもしれないが、果たしてその思想とは何だろうか?
神様の啓示でもない限り、思想なんてものが突然人から生まれてくるとは思えない。
自分の行動で何の影響も受けていないオリジナルな思想に基づく行動なんてものがあるだろうか?
例えば僕の場合、恐らく「特攻の拓」を読んでなかったらバイクには乗ってないだろうし、小学生の時K−1を観ていなかったら空手はやらなかっただろう。
バブル期に入社したら仕事よりもジュリアナだったかもしれないし、就職氷河期に就職したら会社にしがみ付くことを考えたかもしれない。
今は仕事はなるべくさっさと終わらせて帰るのが好きだけど、最初の配属が上司が残業しまくる部署だったら残業しまくる人になってたかもしれない。
突然閃くような偉人は別として、凡人は育った環境とか読んできた本とかの過去の蓄積、そして今現在居る環境からの影響から逃れえない。
だから何らかの思想を正しいと信じている人は、自分がそう信じるようになるような道をたまたま歩んできた結果そうなってるだけであって、生来の思想・信念に基づいて行動している人なんかいないと思う。



という感じの思想を僕は歩んできた道から導き出してしまった感がある。
思想なき思想とでも言いますかね。
確固たる思想がないことは人間的に成熟していないのかもしれないけど、俺は「確固たる思想なんて存在しない」という「確固たる思想」を持っているという屁理屈も可能だ。
だから何だって話ですが、こういうことを考えるのは時間の無駄なので、こういう無限ループの輪廻的な思索からは解脱しちゃいたいな、ということが言いたかった。


ジャン・クリストフを読んでたら、なぜかこんなことを考えてしまった。
最後に今日読んでてかなりドキリとした一節を載せて、長ったらしい日記の〆としたいと思います。


「知力のすぐれた者は、他人を批判し、ひそかに他人を嘲笑い、多少他人を軽蔑しはする。しかし彼も、他人と同様なことを行って、ただ少しよく行ってるのみである。そういうのが、おのれを他人の上に立たせる唯一の方法である。思想は一個の世界であり、行為は別個の世界である。おのれを思想の犠牲とする必要がどこにあろう?真正に考える、それはむろんのことだ。しかし真正に口をきく、それが何の役にたとう?人間はかなり愚かなもので、真実を堪えることができないからといって、彼らに真実を強いる必要があろうか。彼らの弱点を容認し、それに折れ従うようなふうを装い、人を軽蔑する自分の心の中でわが身の自由を感ずること、そこにこそひそかな享楽がないであろうか。それは怜悧な奴隷の享楽だと、言わば言うがいい。しかし世の中では結局奴隷となるほかはない以上、同じ奴隷となるならば、自分の意志で奴隷となって、滑稽無益な争闘を避けた方が良い。奴隷のうちでもっともいけないのは、おのれの思想の奴隷となって、それにすべてをささげることである。自己を盲信してはいけない。」